泰緬鉄道の終点、タンビュザヤの博物館 THE DEATH RAILWAY MUSEUM
巨大寝釈迦から車で南下して1時間弱、タンビュザヤに着いた。町を通る線路沿いの一角に公園があり、そこに小さな博物館が建っていた。これが泰緬鉄道の博物館だ。そう、タンビュザヤは泰緬鉄道の終点として有名な町だ。博物館の正面には THE DEATH RAILWAY MUSEUM Thanbyuzaya と、大きく名前が記されていた。
泰緬鉄道は第二次世界大戦中に日本軍によって建設されたタイとビルマを結ぶ鉄道だ。建設時には多くの地元住民や連合軍の捕虜が建設労働に駆り出されが、劣悪な労働環境のために犠牲になった人たちが数知れずという鉄道だ。映画「戦場にかける橋」を見たことのある人も多いだろう。日本では泰緬鉄道の名前で有名だが、英語圏では Death Railway の名で知られているらしい。
入場料は外国人が5,000Ks(約410円)。日本人の私としてはちょっと神妙な面持ちで5,000Ks払った。窓口の中を見ると係員の女性他たちが茹でトウモロコシを食べていた。
「おいしい?」
と聞くと、
「これあげるから食べて」
と、トウモロコシを無理やりくれようとする。やっぱりミャンマーだ。
小さいが真新しい博物館の正面には線路が設置され、ツルハシをふるったり石を運んだりしているミャンマー人労働者の像があった。ここにもジオラマがあった。
館内に入ると、ミャンマー人の若者たちの楽しそうな声が聞こえた。1階の真ん中に記念写真コーナーがあり、山奥を走る泰緬鉄道の線路が描かれていた。一種のだまし絵になっていて、描かれた線路に立って写真を撮るとまるで本当の鉄橋の上立っているかのよう(かな?)。ともあれ、写真大好きなミャンマー人にとってここは楽しいコーナーだ。
1階は記念写真コーナー以外に、英語とミャンマー語で説明文が彫られた石版が何枚か飾られていた。他には当時の写真を展示していた。2階は当時の写真と路線の説明などが書かれた写真の展示だ。これが博物館の展示物全てだった。
外に出ると若者たちの歓声が聞こえてきた。声のするほうに向かうと蒸気機関車が展示され、記念撮影大会で盛り上がっていたのだ。後で調べて分かったのだが、この蒸気機関車は靖国神社の遊就館に置かれていたものと同じもので、実際に戦時中の泰緬鉄道で使用されたものだ。日本ではC56型蒸気機関車として知られているが、この機関車は戦後ミャンマー国内で使用され、C0522というナンバープレートが与えられていた。
蒸気機関車の先の線路には二人の日本兵の歩哨も立っていた。う〜ん、かなり醜い。それに背が低い。ミャンマー人から見ると当時の日本兵は小さかったというイメージが強いらしい。私が住んでいるアパートの1階には当時をよく知るおばあちゃんがいるのだが、「最近の日本人は大きくなったわねー」と私を見て何回か言われたことがある(前にも言ったということを忘れている)。私は172cmなので、今の日本人としては平均的な背の高さなのだが・・・
蒸気機関車の前方に立った歩哨の先で線路は消えている。機関車の後方にも線路が伸びているが、左から来た本線のすぐ手前で消えている。本線は今現在使っている線路で、モーラミャイン、ヤンゴンへと続き、南はイェー、ダウェイへと伸びている。ここにある線路が本当に当時のままなのか、他から移設してきたのか知りたくて、あのトウモロコシをおいしそうに食べていた受付の女性たちに聞いてみた。
「昔と同じだと思う・・・」
自信なさそうだった。
タイ側の終点、カンチャナブリーでは博物館以外にもクワイ川(クウェー川)の鉄橋や工事現場なども残っていて観光客もたくさんやって来ているという。ミャンマー側で一般公開されているのはここタンビュザヤの博物館だけだ。タンビュザヤからタイ国境側はカレン州で、そこには今でも線路跡などが残っているかもしれない。実際、KNU(カレン民族同盟)から寄贈された当時の線路が博物館横に置かれていた。カレン州の線路跡にもぜひ行ってみたいものだ。
ところで、ミャンマーでは泰緬鉄道はあまり有名ではないので知らない人も多い。しかし、最近はタンビュザヤに博物館が出来たことでニュースでも取り上げられるようになり、昔よりは知名度は上がってきた。ミャンマー人で泰緬鉄道を知っている人は、テイミンタマー ヤッターラン というミャンマー語でこの鉄道のことを呼んでいるそうだ。「テイミンタマー」は近い日本語だと「死神」で、「ヤッターラン」は「線路」だ。「死神線路」という名前だ。
泰緬鉄道の建設では、多くの連合軍捕虜が犠牲になったとして知られているが、実際にはミャンマー人やタイ人、他にもインドネシア人やマレー人など現地の人たちのほうが犠牲者の数も死亡率も高かった。この線路の建設に呼ばれることは死神に呼ばれることと同じだとミャンマー人から恐れられていたらしい。
公園内には、「世界平和の塔」と書かれた白い塔があった。手と手を合わせた像には、「自他平等碑」という題名で仏陀の教えが日本語で刻まれていた。これを建立したのはヤンゴンの日本人学校の元校長、置田和永さんだ。置田さんにインタビューをした梅村さんの記事がある。
http://plaza.rakuten.co.jp/umekin/diary/201606180000/
この記事によると、蒸気機関車を守っている日本兵2名の像は、元々は博物館正面の労働者たちを酷使する現場監督だった。その後いろいろな経緯で、機関車を守る歩哨になった。ジオラマの日本兵2人にもストーリーがあった。
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