ミャンマーで本格ミュージカルガラコンサートをプロデュース 岩城良生(Sein Zaw Than)氏

日本に帰化し、日本人として国内外で活動する岩城良生氏。ミャンマーが注目を浴びる昨今、各種メディアで彼の姿をたびたび目にしている日本人の数は少なくないだろう。ミャンマー出身の彼は、NPO法人・メコン総合研究所(GMI)メンバーやOffice Yoshio代表としてメコン地域の若者のサポートを行うほか、日本とミャンマーの文化やビジネスの架け橋として多忙な毎日を送っている。

そして昨年、Yoshio Entertainmentを設立し、ヤンゴンはストランドホテルを舞台に、実力派歌手を起用、ミャンマー初となる本格舞台をプロデュースした。回を追うごとに人気を増すコンサートを生み続ける、その想いを聞いた。

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エンヤン編集部(以下、編集部):小さいころから音楽や舞台に慣れ親しんでいたと伺っています。興味を持ったきっかけや思い出などがあれば教えてください。

岩城良生氏(以下、岩城氏):きっかけは、2歳半くらいの頃にまで遡るでしょうか。当時のミャンマーにはテレビがまだなく、娯楽と言えば映画という時代だったのですが、生の歌や舞台を見ることが好きだった両親に連れられて、パデター・カプェを見に国立劇場にしょっちゅう足を運んでいた記憶があります。パデター・カプェというのは、バイオリンなどを含めたオーケストラと歌手の共演に合わせ、ステージ上で有名な俳優女優が口パクで演技をするという、いわばミュージカル仕立てのコンサートのことです。もちろん、歌手たちがステージ上で歌う演目もありました。伝統的な音楽ではなく、70年代に流行っていた国内外のR&Bやフォークソング、ラジオで流れる流行歌や映画音楽などがメインで、当時はよく開催されていましたね。夜の19時~19時半ごろから始まって、夜中の3時くらいまでやっていましたね。当時の国立劇場は現在のような建物ではなく、ステージに屋根が付いた野外コンサート場のような感じでした。

他にも、85年~86年の学生時代は「ワジア・ピャゼッ」などもよく見に行っていましたね。有名な俳優・女優が出演するお笑いやお芝居、歌などで構成される、ある種お芝居のようなものです。ダウンタウンのワジア映画館の中にそのための舞台が当時はあったんですよ。

僕は音楽、ライブや舞台が好きで、ミャンマーの伝統的な大衆芸能のひとつである「ザッ」などもよく見ていましたね。小さい頃からこの手の物ばかり見ていたんです。中学生の時に罰ゲームで歌を歌わされた時も、全く歌謡曲を知らなかったので、ザッで歌われる歌を歌ったことがあったんですが、周りの生徒が「なんて古い歌を...」という目で僕を見ていて、非常に恥ずかしい思いをしたというエピソードがあります。今では笑い話ですが、そこからKai Zarさん やMay Sweetさんの歌など、流行りの歌手の曲なども聞くようになりました。ちょっと例えにしにくいですが、日本でいえば、ポップスを歌うところを、歌舞伎の一幕を演じてしまった、というような感じでしょうか(笑)。

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編集部:幼いころからひとつの夢を持ち続けるというのも、また、それを叶えるというのも、なかなかできないことだと思います。具体的にプロデュースの仕事をしたいと考え始めたのはいつごろからなのでしょうか?

岩城氏:実は音楽や舞台に関わる仕事をしたいと昔から思っていたわけではないんです。中学生のころに、将来何になりたいのかと後輩に聞かれて、「プロディーサーになりたい」と、ほんの数回だけ言ったような気がしますが、その程度です。舞台を作りたいという具体的な気持ちを持ったのは、たった1年ほど前のことです。

ですが、昔から音楽は好きでしたし、良いものがあれば作りたい、皆とシェアしたいという気持ちはあったように思います。私は日本人アーティストの中島みゆきさんが好きなのですが、大学時代、彼女の曲を自分で選曲したCDを知人に配ったことがありました。正直そのことはすっかり忘れていたし、選んだ曲も覚えていませんが、最近、当時の同級生から「昔もらったCDを聞くと、今も元気が出るんだよ」と言われ、前からプロデューサーという仕事に対する興味の片鱗はあったのではないかなと感じましたね。そういえば小さいころ、家の階段で竹にロンジーをかけて舞台の幕のようにして、色とりどりの色鉛筆を音楽部隊や歌手、俳優に見立てて、パデター・カプェごっこをやって遊んでいたこともありましたね。色鉛筆を使ったのは、幼いながらも舞台のカラフルな様子を表現したかったんでしょうね。そんなことを思い出すと、昔から何かを演出したいという気持ちは無意識のうちに自分の中にあったんだろうと思えてきますね。

編集部:90年に日本に留学されていますが、日本での生活はどうでしたか?

岩城氏:日本には1990年に留学しました。88年に学生運動が起きて大学が閉鎖され、その後2年たっても再開されない中、勉強を続けるために親戚がいるアメリカか日本に行くという話が持ち上がり、僕は日本を選択しました。ちょうど学生だった70年~80年代、ミャンマーでは音楽も映画も含め日本のものがたくさん流れていたため親しみがあったということもありますし、アルバイトをして学費を稼ぎながら学ぶことができたという点も魅力でした。

その当時は、ミャンマーを出国するときは50ドル分しか外貨を持っていけず、本当に50ドルだけを持って安い航空会社でタイ経由で日本へ向かいました。自分の学費、生活費を稼ぐのはもちろん、家族への仕送りもしたかったので、アルバイトも夢中でいっぱいしました。17時に日本語クラスが終わってからは、18時から午前5時までアルバイトをするなど、ほとんど休みなしの暮らしをしていましたね。家も他のミャンマー人と一緒にシェアしなくてはならなかったので、集団生活に慣れていない僕は全く寝ることができず、初めの数か月で6回もミャンマーの人とのシェアハウスを転々としたこともありました。

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編集部:来日して音楽や舞台に対する想いに何か影響はありましたか?

岩城氏:音楽への興味はこれまで一度も途切れたことはありませんが、ミャンマーで大学が閉鎖さてから日本へ留学してしばらくたつまでは、生活が落ち着かなかったこともあり、舞台からは遠ざかってましたね。そして99年ごろでしょうか、たまたま劇団四季に近い場所にある会社に勤めたことをきっかけに、彼らのミュージカルに足を運び、「やっぱり映画よりも舞台のほうが面白くって、好きだな。」ということ気が付いたんです。とはいえ、そのころも舞台をやろうなんてことまでは深く考えてはいませんでしたけど。

本格的にプロデュースの仕事を考える前も、03年にMay Sweetさん(注1)のコンサートを日本で企画、開催し、彼女の選曲を自分でするなどプロデュース的な仕事は行ってました。コンサート自体は大成功でしたし、当日会場での募金が25万円ほど集まり、ミャンマーの孤児院を支援することはできましたが、コンサート開催の経験がなかったため、色々なところで経費がかかってしまいました。結局、赤字になった部分は関わった仲間4人で自腹を切ることでで終わりました(笑)。

編集部:ミュージカルをミャンマーで行おうと思った背景には何があったんですか?

岩城氏:去年、ヤンゴンでGMI(注2)として寺子屋音楽祭を主催したのですが、それを企画したころから、作詞家や歌手など音楽関係者が僕の周辺に集まってくるようになりました。昨年の2月くらいにMay Kha Larさん(注1)とのご縁があって、最終的には寺子屋音楽祭はMay Kha Larさん、May Sweetさん含め5人のアーティストに出演していただくことになりました。また、昨年3月頃にPhyu Phyu Kyaw Theinさん(注1)との出会いがあり、そのことがきっかけで、ミャンマー初の本格的なショーをやるという構想がスタートしました。ちょうど4月にPhyu Phyu Kyaw Theinさんの世界デビューが香港で行われ、香港にいる僕のビジネスパートナーがそのスポンサーになったんです。そして彼女と会食をしたときに、ミャンマーの音楽界を変えていこう! と盛り上がったんです。

ちょうど彼女の香港コンサートがあったのが4月8日、その後一日刻みで日本や韓国などを行ったり来たりする予定が入っていましたが、韓国に行く前日に、この10年間闘病生活にあり介護が必要だった母が亡くなり、ちょうどその時から物事が劇的に周り始めたように思います。今まで背負っていたものが変わって来た、冒険ができない状況が変化したというのも大きいと思います。

そこから一気に、昨年は4つの舞台を手掛けましたね。先ほど触れたGMIとして行った6月の寺子屋音楽祭、10月後半に日本で開催したミャンマー祭りの開催のMay Sweetさん、May Kha Larさん、Zaw Paing さんたちのコンサートのアレンジ、11月にはYoshio Entertainmentの名前で活動をスタートして初のPhyu Phyu Kyaw Theinさんのソロショー・「Love of Musicals」(ヤンゴンで開催)、そして同じく11月下旬開催の「Thank you for the Music」(ヤンゴンで開催)です。去年は本当に激動の一年でした。

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編集部:大がかり且つ初めての試みということで、ミャンマーで大きな話題になったと思いますが、実際のところいかがでしたか?

岩城氏:11月1日開催のPhyu Phyu Kyaw Theinさんのソロショーの記者会見を10月に行ったのですが、メディア陣がなんと120名も出席してくれました。ミュージカルの歌が入っているミャンマー初のショーということもありましたが、何よりも皆を驚かせたのが、May Kha LarさんとMay Sweetさんとう大御所の歌手2人が、Yoshio Entertainmentとしての初の活動を応援しようということで、その記者会見に現れたことです。他の歌手の記者会見に、ショーに参加しない歌手が現れるというのは、この国では異例のことなんです。ショー当日には、韓国でデザイン、印刷したプログラムを会場で配布する、VIP席のお客様には日本製の財布や名刺入れのプレゼントをする、またVIP席のお客様はワイン、ウィスキー、ビール、ソフトドリンクを飲みながら、サンドイッチや他のフィンガーフードを食べながらショーを鑑賞するなど、いろいろなことがミャンマー初だったことも話題を呼んだ要素の一つだったと思います。

ただその一方で、初めての試みという点で、Phyu Phyu Kyaw Theinさんには大変な思いもさせてしまいました。まずリハーサルの回数がミャンマーの通常のケースとは違います。十数曲通しのリハーサルを何度も行うなど、Phyu Phyu Kyaw Theinさんには本当に頑張ってもらいました。また、チケット代を15万Kyats(約1万5000円)以上にするなど、この国ではかなり高額な金額に設定しました。これはYoshio Entertainmentが行ったことなのにも関わらず、世間からはPhyu Phyu Kyaw Theinさんが設定したように思われてしまったようで、本当に大変な思いをさせてしまいました。

しかしこのスタイルを繰り返して、今回、ようやく3度目にして、いろいろなことをきちんとやって行こうという僕の思いが徐々に周りに浸透してきたと思います。

編集部:準備やその他でより大変な思いをしながらも、それぞれの女性アーティストたちは岩城さんの手掛ける舞台に参加し続けてくださっています。それはなぜだと思いますか。

岩城氏:やはり、やりがいがあるからではないでしょうか。こういった試みは、本当に今しかできないものだと思います。僕も同じことはもう出来ないかもしれないし、誰かがやろうとしても無理だと思います。面白い企画だということで、みんな勢いでのってきてくれたんでしょうね。

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特にPhyu Phyu Kyaw Theinさんは、ソロコンサートはこの4年半やっていなかったのですが、昨年11月開催のソロショーのオファーを引き受けてくれました。場所にしても、2回ほど会場としてお世話になっているストランドホテルは、ここ最近はライブやコンサートなどは引き受けていなかったホテルなんですが、Yoshioの企画は面白いということで、協力してくださっています。

編集部:今までにないものを創り上げるというのは、並大抵の苦労ではないと思います。そのエネルギーの根底にあるものはなんでしょう?

岩城氏:ミャンマーではお金を出す人はいても、面白いことを企画できる人がいないのが現状です。この国のプロデューサーの役割というのは、例えば、お金を出すから呼びたい歌手を誰かに呼ばせて、歌ってもらって終わり、それだけなんです。ステージ全体を構成するという発想をできる人は少ないし、経験も少ないんです。歌手を呼んでも、選曲も衣装も本人任せ。その現実を目の当たりにしたときに、これではお客さんにあまりに失礼ではないかと思ったんです。ミュージカルコンサートを行おうと思った背景には、総合プロデューサーとはこういう仕事だということを、お見せしたい想いもありましたね。そういうことを今やらないと、CDもアルバムも作らなくなり、歌手たちも新しい曲を発表しなくなって来ているミャンマーで、「創作」という言葉が業界からなくなってしまうという危機感もありました。

少なくともミュージカルに関しては、ミャンマーの方々も観光で海外行ったついでに観て、「いいね」「面白いね」で、これまでは終わりで、ショーをきちんとした形で企画して人に見せようと行動を起こす人もいなかったんです。その流れを、今まさに僕が変えているんだと思います。

編集部:ミャンマーでミュージカルコンサートを行って、何かが変わって来たという手ごたえはありますか?

岩城氏:僕は、子どものころから自分が感動したものを皆とシェアしたい、励ましや夢を誰かに届けたいという思いを強く持っているんです。今回の3月のミュージカルにDREAM OF MUSICALSというタイトルを付けています。DREAMという言葉は、昨年行った最初のミュージカルのタイトルにも入れようと思っていたもののボツになってしまったという背景がありますが、歌手は観客の夢を叶える、夢を届ける立場でもあると思っているんです。

3月のコンサートでは、参加して下った歌手の一人、Ni Ni Khin Zawさんに、Defying Gravityという曲を割り当てました。最初はNi Niさんご自身や編曲家、皆に、ミャンマーでこの曲をやるのはハードルが高すぎる、無理だと言われました。でも、とにかくやってみてくれと彼女に頼んだ結果、Ni Niさんは見事に歌い上げることができました。歌い手が観客に夢を届ける立場でありながら、歌い手が自らグレードアップするという自身の夢をも叶えることができたのだと思います。

編集部:3回目のショーに関しては、反響はいかがでしたか?

岩城氏:3回目を終えて、来ることができなかった人たちによる、見てみたかったというFacebookでの書き込みがたくさんでました。パデター・カプェという芸能が昔からあったように、ミャンマーでは本来ミュージカルというスタイルは馴染みのあるもののはずです。それを、ショーとはこういうものだ、ミュージカルとはこういうものだということを皆に分かってもらえれば、だんだんこういうエンターテインメントも広がっていくと思っています。

現時点では、すでにある曲、ミュージカル楽曲を使ってショーを行っていますが、近い将来、オリジナルの歌とストーリーでのミュージカルがやりたいですね。ヤンゴンだけでなく、ほかの都市でも開催したいです。その前に、まずはスポンサーが必要ですけどね(笑)。

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(写真:後藤修身、文:菊池美弥)

注釈
注1:May Sweet、May Kha Lar 、Phyu Phyu Kyaw Thein、Ni Ni Khin Zawはいずれもミャンマーの人気歌手。15年3月開催のYoshio Entertainmentのミュージカルにはこの4人とChan Chanを含む、大御所、若手人気歌手の5人がメインで出演した。

注2:メコン地域の若者の未来を応援するために06年に設立された特定非営利活動法人(NPO法人)。日本の首相夫人、安倍 昭恵氏が名誉顧問としてかかわるほか、岩城良生氏が副所長兼事務局長を務める団体。http://www.gmijp.net/

プロフィール
岩城良生(いわき よしお、ミャンマー名:Sein Zaw Than)
ミャンマーで本格ミュージカルをプロデュースするYoshio Entertainment創設者。69年生まれ。90年に留学のため初来日し、大学院卒業後、06年に日本に帰化。GMI副所長・事務局長としてメコン地域の若者やミャンマーの寺子屋支援を行う一方、日本でのミャンマー人歌手のコンサートやミャンマー祭りの実施を行うほか、Office Yoshio代表取締役としても活動。14年にはミャンマー初のミュージカル風ショーのプロデュースを行い、以後、ミャンマーにミュージカル文化を根付かせるべく活動を行っている。

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